武道の目的とは

  武道の前にまず『武術』であるということです。
  武術とは生と死の場から自分の身を護り、相手を制圧、殺傷するために作り上げた術技です。

  明治初期、『道』という言葉が付け加えられ、それまでの相手を制圧、殺傷するためのものから、武術稽古を通じ、
    『人を傷つけることなく』心の修行と自己完成を目指すことを目的とする『武道』へと昇華させました。

  武道の目的とは試合に勝つことでも、人を傷つけることでもなく 『稽古を通じ、心の修行と自己完成』 を図ることです。


    真の強さ 『克つ』

  強いといっても単に殴りあいに強いだけが本当の強さとは言えるのでしょうか。

  格闘技のチャンピオンのような誰かと比べて強いというような狭義の『※相対的な強さ』は、若いうちの一瞬だけで、
    その強さも猛獣と戦えばひとたまりもありません。
  そして殴り合いの強さが現代社会においてどれほど重要でしょうか。

    では本当の強さとは何なのでしょう。

  それは『心の強さ、自分に克つ』強さが、真の強さなのではないのでしょうか。

  人生の困難な局面にも逃げ出さず、覚悟を決め、それに立ち向かい、打ち克つ強さ。

  和心流空手道場では心の強さ、内面に持つ大義の『※絶対的な強さ』こそが真の強さであると考えます。

  稽古を通じ、その心の強さを養います。

  ※『相対的な強さ』 他と比べてどうか、対象が自分以外『勝つ』
  ※『絶対的な強さ』 他と比べるのではなく独立して揺るがないもの、対象が自分自身『克つ』


  スポーツと武道の違い

  ほとんどのスポーツ界は20代、30代の選手がトップにい
  ます。
  それはそれで素晴らしいことです。

  格闘技で30歳と60歳の選手が戦えばどうなるでしょう?
  もちろん100%、30歳の勝ちですよね。
 
  では武道の世界においてはどうでしょう?
  
  スポーツ的武道では30歳が勝ちます。

  ですが真の武道においては60歳が勝ちます。
  武道の言葉で『50歳でヒヨコ』という言葉があります。

  筋力を主体としたスポーツ武道は筋力の衰えと共に技も
  落ちていきますが、 呼吸からのエネルギーを主体とした
  真の武道は年齢に
  関係なく技の威力が増していきます。
  
  もう少し分かりやすい例えで言いますと、30歳と60歳の
  芸術家、料理人や職人の世界などがそうです。
  技量だけでなく、人間としての経験、成長が技術にもつな
  がり、より素晴らしい作品に仕上がります。
  
  加齢や性別、体力に関係なく技術が向上していくのも武
  道の特徴です。

  スポーツの目的は『勝つ』ことで、 武道の目的は『心の修
  行、人間形成』です。

  そしてもう一つ。

  スポーツは失敗しても次があります。
  今日の負けを明日に生かすことが出来ます。
  真剣の斬り合いから生まれた武術では、失敗、負けは死 
  を意味します。
  今失敗したら、今日負けたら次も明日もありません。
  失敗は成功のもとや、十中八九の確率論、イチかバチかもありません。

  『唯一無二の絶対の境地』を目指すもの、それが武道です。


  スポーツの危険性


  健全な肉体と精神を作るためのスポーツであるはずなのに、相撲界やスポーツ界の不祥事、スポーツをする小、中     学生のいじめなどはなぜ起こる のでしょう。

  それは『人を育てることよりも、試合に勝つことが目的』となっているからです。

  試合に勝つことが最大の目的ですから、少しぐらいの反則をしても審判に見つからなければいい、試合に勝てればい    いとなります。
  フェアプレーという精神がありながら、当たってないのに当たったふりをし、反則をもらうことを戦術としている競技もあ    ります。
  自分に不利になる誤審には猛抗議ですが、自分に有利になるものにはラッキーで知らぬ振り。
  反則でさえ、勝つためには利用します。

  そのくせ日常生活ではルールを守れと言っても聞こうとはしません。
  そういうことの積み重ねが『誰も見ていないから』『親や先生にバレなければ』や、『過剰なトレーニングによる肉体的、    精神的ストレス』 『勝 ちたい、勝たなければいけないというプレッシャー』などから日常考えられないような行動に出て
  しまいます。


  現在の空手界

  空手の技というものは型を稽古し、その中から生
  まれます。

  つまり『型の習得度合い=空手のレベル』であり、
  型を何百回、何千回と稽古し、発見と気付きを繰
  り返しながら型を上達させていくものです。

  しかしながら現在の空手界はスポーツ化、競技化
  が進み、科学的トレーニングで筋力を鍛え、自由
  組手の技は『型からの技』ではなく、型の技とは関
  係のない『試合用の技』となってしまい、型も『型試
  合のための型』となり、見た目のきれいさや、派手
  さを重視し、本来の『武術としての使える型』からは
  程遠いものになってしまっています。
 
  本来の武道における試合というものは、自分の実
  力がどれぐらいなのか、型が、空手がどれぐらい身
  に付いているのかをお互いに『試し合う』場であり、
  その結果と反省をもとに稽古の指針を立てていくと
  いうような意味合いのもので、決して勝敗のみを競
  い合うためのものではありません。

  つまり『稽古>試合』であり、『試合のための稽古』
  ではなく、『稽古のための試合』です。

  このようにスポーツ化が進むことによって『型』と
  『組手』が別のものであるという考え方や見方をす
  る人が多くなっています。

  原因として、一つにはスポーツ的な試合を作ったこ
  とにより、試合用のルールを作り、そのルールに即
  した練習や、試合に勝つた め
  の稽古や技の開発が皮肉なことに空手本来の技を
  失わせてしまっているということです。
  もう一つは正しく型を理解し、型の中にある本物の
  技を体現できる指導者が限りなくゼロに近く、本当    の型を教えられる指導者が少ないという事実です。

  それほど空手の型というのは難しいものなのです
  が、故に一生を懸けて稽古をする価値があります。
  そしてその『型』の中にこそ『呼吸を根源とした筋力
  に頼らない力』
  や『実戦から生まれた本物の技』が無限に秘められ
  ており、『型を極めるということは武術を極める』とい
  うことであるといえます。

  また、筋力主体のスポーツ的な技は年齢とともに衰   えていきますが、型稽古から培われた技は年数を
  経るごとに逆にその威力を増していきます。